2012年3月18日日曜日

陸上自衛隊 - Wikipedia

陸上自衛隊(りくじょうじえいたい、英語:Japan Ground Self-Defense Force)は、日本の官公庁のひとつ。防衛省の特別の機関である。略称はJGSDF

防衛省の特別の機関であり、陸上幕僚監部並びに統合幕僚長及び陸上幕僚長の監督を受ける部隊及び機関から構成される。自衛隊法の規定によれば、主として陸において行動し、日本の平和と独立を保つため、直接及び間接の侵略に対する防衛を行うことを主任務とし、また必要に応じて公共の秩序の維持に当るものとされる。

主に陸上自衛官で構成され、その最上級者は幕僚機関である陸上幕僚監部を統括する陸上幕僚長である。なお、日本では法律上軍隊としての機能は発揮できないとされるが、他国からは陸軍と同様のものとみなされており、また実質その能力を備えている。

平成23年度以降に関わる防衛計画の大綱では、常備自衛官147,000人と即応予備自衛官7,000人の合計154,000人、戦車約400両、火砲約400門と定数が設定されている。2011年(平成23年)3月末時点での陸上自衛隊の各装備の保有数は、戦車796両、装甲車980両、高射機関砲52両、ロケット弾発射機など945両、野戦砲(各種榴弾砲)605門、迫撃砲1,900門、無反動砲3,100門である[1]。駐屯地の数は約160である。

なお、略称で「陸自」と呼ばれることも多い。マークは"日本列島を守るように抱える緑色の両手"。

愛郷心を生かすため、出身地域に隊員を振り分ける傾向があるといわれている。

約14万110名(年間平均人員)の人員を擁する。

防衛省陸上幕僚監部の入る市ヶ谷地区A棟(左端)

山林での戦闘訓練(米国カリフォルニア州フォートルイス訓練場)

雪原での米海兵隊との合同訓練

米強襲揚陸艦ペリリュー航空機格納甲板で訓練中の西部方面普通科連隊第2中隊の小銃手

陸上自衛隊音楽科第12音楽隊

[編集] 組織の沿革

1945年(昭和20年)に日本はポツダム宣言を受諾し、ポツダム宣言第9条に基き、大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍は解体され、代わって日本の防衛は米軍を中心とする進駐軍が担った。ところが、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、在日米軍の大半は朝鮮半島に出動し、日本防衛について空白が生まれた。 そのため、マッカーサー元帥の書簡により国内の治安維持を目的として、同年8月に「警察予備隊」が創設された。

1952年(昭和27年)に「保安庁」が発足した。警察予備隊は海上警備隊及び海上保安庁航路啓開隊とともに保安庁隷下に入り、それぞれ「保安隊」、「警備隊」に改組された。

その後、順次防衛力の整備が進み、1954年(昭和29年)7月1日に、保安庁は防衛庁に改組され、保安隊及び警備隊は、「陸上自衛隊」、「海上自衛隊」及び「航空自衛隊」に改組された。2008年現在、日本国内では正式の「陸軍」(Army)として位置づけられていないものの、諸外国においては、自衛隊の他の部隊も「日本海軍」(Japanese Navy)「日本空軍」(Japanese Air Forces)と呼称するのと同様「日本陸軍」(Japanese Army)と呼称する向きもある。陸上自衛隊を所管する防衛庁は、2007年(平成19年)1月9日に防衛省へと昇格した。

[編集] 人事の歴史

警察予備隊創設当時の総理大臣吉田茂にも、横暴であった旧陸軍に対する反発があり、警察予備隊創設に当たって、国会で「警察予備隊創設の目的は、国内の治安維持のためである。軍隊にあらず」と答弁した。この際、当時の世論を支配していた陸軍悪玉論に基づき、将官クラスの旧陸軍軍人は、ほとんど関与しておらず、大半は旧内務官僚により創設された。

創設当初は陸軍士官学校出身の元正規現役将校の入隊は認められず、警察予備隊幹部は、警察を含む内務省等の文官や旧陸軍の幹部候補生出身者からなり、警察予備隊の結成以後、矢継ぎ早にアメリカ陸軍からさまざまな兵器の供与を受けたが、警察出身者や文民出身者では、部隊の指揮統率や兵器に関する教育は不可能であった。そこで、アメリカ軍事顧問団により初期の教育を受け、アメリカ陸軍式の編制・ドクトリンを有する組織になった(最たる例は敬礼や気をつけ、行進などの基本教練においても旧軍式から米陸軍式となった。但し脱帽時には挙手の敬礼を行わないなど完全に米陸軍式となったわけでもない)。また、アメリカ側も大日本帝国陸軍の完全復活を懸念し、ラッパ譜に至るまで旧日本陸軍のものの使用を禁じた。< /p>

警察予備隊の総隊総監(後の、保安庁第1幕僚長、防衛庁陸上幕僚長に相当する。)には林敬三が充てられた。林敬三は総隊総監・第1幕僚長として4年、統合幕僚会議議長としてさらに10年の計14年の長きに渡り自衛隊の制服組トップに君臨した。各自衛隊は発足の経緯から、いずれも初代幕僚長に官僚出身者を迎えたが、海自・空自が初代のみで終わったのに反し、陸自は戦中派出身の陸上幕僚長19名の内、内務官僚出身者が5名もおり、陸自が「内務軍閥」と言われる元となった。

もっとも、戦車が供与されるに到って、実戦経験者による的確な運用が必要となったため、1951年(昭和26年)に中佐(副連隊長級)以下の陸軍士官学校出身者の入隊が認められたが、大佐(連隊長級)以上の入隊は認められなかった。しかし1952年(昭和27年)7月、保安庁保安隊への組織改編を前に、軍事的専門性をより高めるために、旧陸軍省や参謀本部において太平洋戦争の指導的立場にあった、元陸軍大佐10人、元海軍大佐1人の入隊が認められた。このように続々と旧軍人たちが復権していったが、伝統は受け継がれなかった。

1957年(昭和32年)に、初の防衛大学校(保安大学校)出身の隊員が入隊する。その後は、順次防衛大学校出身の幹部が増加していった。1986年(昭和61年)3月に中村守雄陸将(元陸軍航空士官学校第61期生徒)が退職したことにより、陸上自衛隊における旧陸軍士官学校出身者は皆無となった。

近年は災害派遣、海外派遣など活動範囲を広げ、国内外で注目を集めている。また、自衛隊そのものの活動ではないが、カンボジアにおいて、元陸自隊員の立ち上げたJMASが地雷不発弾処理を行い、成果を挙げている。

アメリカ陸軍の陸軍最先任上級曹長(Sergeant Major of the Army)制度や海上自衛隊の先任伍長制度を参考に、2006年(平成18年)4月1日には、陸上幕僚監部に「陸上自衛隊最先任上級曹長」を置いて、准陸尉・陸曹階級の能力活用にも取り組んでいる。(詳細は曹士の能力活用)


"ここで、スケートボードが発明された"

[編集] 旧陸軍の伝統の承継

保安隊創設前まで旧陸軍の歴史と人事上一切断絶しており、陸上自衛隊創設後も長らく「陸軍悪玉論」が唱えられていたこともあり、船舶操船という専門性や機雷掃海部隊が原点となっているために、創設に戦中は現役海軍将校だった旧海軍軍人が関与し、旧海軍の伝統を重んじる傾向にある海上自衛隊と比べると旧陸軍との繋がりや思慕の念は薄いとされ、政府答弁でも表向き『繋がりはない』とはっきり答えられている。しかし実際は予備隊発足後、実戦経験のない人間だけでは組織として機能しなかったために急遽、実戦経験を有する佐官クラスまでの元軍人の再入隊を認めるなどして編成された経緯があるため、実働部隊の運用、戦闘行動等は一応継承されている。

また、海上自衛隊の自衛艦旗が旧海軍の軍艦旗を蹈襲したのに対して、同じく陸上自衛隊の自衛隊旗も旧陸軍の軍旗と意匠が異なっているものの、十六条旭日旗を八条旭日旗とする、駐屯地が同じ旧陸軍歩兵連隊と普通科連隊同士の連隊番号を同数とするなど、一部承継している面もある。更には、制式行進曲に旧海軍の軍艦行進曲を制定した海上自衛隊と同じく、旧陸軍伝統の陸軍分列行進曲(抜刀隊)を制定し、陸上自衛隊内部でも公式に「陸軍分列行進曲」と呼称発表されており[2]、パレンバン空挺作戦で活躍した旧陸軍挺進連隊を謳った軍歌「空の神兵」を、第1空挺団がオリジナルの歌詞と共に受け継いでいる他、富士総合火力演習や演奏会行事にて音楽隊により戦前の軍歌が盛んに演奏されている。

中でも北海道に駐屯する第11戦車大隊は、大戦最末期の占守島の戦いに従軍し、結果北海道を護りきった旧陸軍戦車第11連隊(愛称:士魂部隊)のその活躍を顕彰し、栄光の士魂連隊の「士魂精神」の伝統を継承する意味で1970年(昭和45年)より「士魂戦車大隊」と自ら称しており、また公式の部隊マーク[3]として装備の74式戦車・90式戦車の砲塔側面に旧陸軍時代と同じく「士魂」の二文字を描いている[4]など、積極的に旧陸軍の「伝統」を承継している面も多く存在する。また、イラク派遣の際には日中戦争(支那事変)時の宣撫工作を参考にする[5]など経験の承継も行われるようになり、旧陸軍の再評価も行われている現代ではかつて程タブー視はされていないと言われている。

[編集] 防衛力の整備

陸上自衛隊は志願兵のみで構成され、諸職種(兵科)を持ち、隊員の士気や技量、あるいは武器の性能は諸外国と比べても遜色がない。ただし、人件費が割高であることに加え、その装備は輸出しないために少量生産であることが多く、世界屈指の維持費がかかっている。

[編集] 発足当初

発足当初の陸上自衛隊は、1個方面隊及び4個管区隊編成であった。武器は米軍供与のものが中心であり、1960年代の戦車や小銃などの国産装備の採用まで、この米軍供与の武器が主体である状態が続いた。方面隊は、ソビエト連邦の脅威に対応するため北海道を管轄する北部方面隊のみ置かれ、北部方面総監部は札幌市に所在した。

管区隊は、後の師団に相当するもので、管区総監部及び連隊等からなっている部隊であった。第1から第4管区隊まで置かれた。第1管区総監部(後の第1師団司令部)は東京都、第2管区総監部(後の第2師団司令部)は北海道旭川市、第3管区総監部(後の第3師団司令部)は兵庫県伊丹市、第4管区総監部(後の第4師団司令部)は福岡県筑紫郡春日町(現:春日市)にそれぞれ置かれた。

[編集] 第1次防衛力整備計画(昭和33年度〜昭和35年度)

昭和35年度末の実績では、自衛官17万人、予備自衛官1万5千人、平時地域配備する部隊として6個管区隊及び3個混成団の体制が確立され、上部組織として5個方面隊も整備された。その後も長らく自衛官定数17万人前後は維持された。

それに加えて、機動運用部隊としては、1個機械化混成団(第7混成団、後の第7師団)、1個戦車群、1個特科団、1個空挺団(第1空挺団)、1個教導団が編成された。

[編集] 単年度計画(昭和36年度)

この1961年(昭和36年)4月に61式戦車が制式採用され、国産戦車の嚆矢となる。

[編集] 第2次防衛力整備計画(昭和37年度〜昭和41年度)

管区隊および混成団は、1962年(昭和37年)に師団編成に改編された。昭和37年度末の実績では、自衛官17万1500人、予備自衛官2万4千人、基幹部隊として5個方面隊及び13個師団、地対空誘導弾部隊として2隊の体制が確立された。ナイキ・エイジャックスシステムの導入も行われたが、これは1964年より航空自衛隊へと移管された。

この第2次防衛力整備計画の中で、1964年(昭和39年)に64式7.62mm小銃が採用された。この小銃は1989年(平成元年)に89式5.56mm小銃が採用されるまで陸上自衛隊の主力小銃となっていた。

[編集] 第3次防衛力整備計画(昭和42年度〜昭和46年度)

昭和46年度末の実績では、自衛官17万9千人、予備自衛官3万6千人、基幹部隊として5個方面隊及び13個師団、ホーク部隊4隊の体制が確立された。

[編集] 第4次防衛力整備計画(昭和47年度〜昭和52年度)

1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還に伴い、平時地域配備する部隊として1個混成団(第1混成団)が新たに設けられ、沖縄県への駐屯を開始した。長らく主力戦車の座にあった61式戦車(累計560輛生産)であったが、この第4次防衛力整備計画中の1975年(昭和50年)に生産終了となった。

[編集] 防衛計画の大綱(昭和52年度以降)

自衛隊創設以来、4次にわたる「防衛力の整備計画」を実施して、防衛力が一定の水準に達した。そこで、1977年(昭和52年以降)は、「防衛計画の大綱」を定めて、それに基づいて防衛力を規律することになった。


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そして、1985年(昭和60年)度以降は、大綱に基づいて5年毎の中期防衛力整備計画を実施してきた。

1980年(昭和55年)には、対馬警備隊が編成された。また、1981年には四国地域警備のため、第13師団を改編し、第2混成団が編成されている。1990年(平成2年)8月6日に戦後第3世代戦車となる90式戦車が制式化された。1992年(平成4年)に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律が制定され、陸上自衛隊による海外における活動の途が開かれた。これを受けて、陸上自衛隊初の海外実任務となる自衛隊カンボジア派遣が行われ、国際連合カンボジア暫定統治機構に部隊参加している。

[編集] 防衛計画の大綱(平成8年度以降)

[編集] 概要

平成8年度以降に係る防衛計画の大綱について(平成7年11月28日付け閣議決定)に基づく。冷戦終結に伴い、ソ連軍による北海道への大規模な侵攻の可能性は減少し、従来の北方重視から、軍備増強を続ける中国人民解放軍や朝鮮半島有事に備えての西方重視へと方針を変更することとなる。また、師団の一部及び混成団を旅団に改編することとなった。また、市街地戦闘訓練の充実、警察や自治体と連携した防災訓練の推進なども行われた。

編成定数は、常備自衛官定員が14万5千人、即応予備自衛官が1万5千人の合計16万人とされる。基幹部隊のうち、平時地域配備する部隊は8個師団及び6個旅団(平成16年度末までに完了したのはその一部のみ。)、機動運用する部隊は1個機甲師団、1個空挺団及び1個ヘリコプター団、地対空誘導弾部隊は8個高射特科群とされた。主要装備では、戦車は約900両、主要特科装備は約900門/両とされた。

これに基き、陸上自衛隊初となる「旅団」編成(小型師団型)が1999年(平成11年)に発足した(第13旅団)。

[編集] 中期防衛力整備計画(平成8年〜平成12年)

中期防衛力整備計画 (1996)に基づく改革は比較的小規模であった。この段階では、13個師団、2個混成団で、戦車約1200両、火砲約1000門が維持された。

[編集] 中期防衛力整備計画(平成12年〜平成17年)

当初、この中期防衛力整備計画 (2001)は平成17年度末までを予定していたが、平成17年度から新しい防衛大綱が定められたことに伴い、平成16年度末で廃止された。

基幹部隊については、「陸上自衛隊については、装備の近代化にも配意しつつ、新たに5個の師団及び1個の混成団について改編を実施する。その際、1個の師団及び1個の混成団は旅団に改編するとともに、改編した師団及び旅団のそれぞれについて、その一部の部隊を、即応性の高い予備自衛官を主体として編成する。」とされた。2004年度(平成16年度)末時点で、10個師団、3個旅団(第5・第12・第13旅団)、2個混成団(第1・第2混成団)の編成であった。

2005年(平成17年)3月31日現在で、陸上自衛隊の自衛官の定員は157,828人、現員は147,737人、充足率は93.6%で、定員削減の結果、充足率が非常に高くなっている。これは、部隊の即応性・機動性が高くなっていることを示している。ただ、基幹部隊はなお各師団・旅団・混成団に分散されていた。

この中期防衛力整備計画の下では、対ゲリラ戦重視から防衛庁長官直轄部隊として特殊作戦群(2004年(平成16年)3月27日編成完結)西部方面総監直轄部隊として西部方面普通科連隊(2002年(平成14年)編成完結)が新編された。また、2002年(平成14年)4月には国民に対する総合的な広報施設として、朝霞駐屯地に陸上自衛隊広報センターが開設された。

[編集] 防衛計画の大綱(平成17年度以降)

[編集] 概要

平成17年度以降に係る防衛計画の大綱について(平成16年12月10日安全保障会議決定・閣議決定)に基づくもので、2005年4月以降が対象である。

編成定数は、常備自衛官定員が14万8千人、即応予備自衛官が7千人の合計15万5千人とされる。基幹部隊のうち、平時地域配備する部隊は8個師団及び6個旅団、機動運用する部隊は1個機甲師団及び中央即応集団、地対空誘導弾部隊は8個高射特科群とする。主要装備では、戦車は約600両、主要特科装備は約600門/両とされた。

国際貢献や災害派遣など自衛隊の活動する場面が増えたことにより、常備自衛官が3千人増員されたものの、公務員の定員削減の一環として即応予備自衛官が半減されることとなった。また、機動運用する部隊では、1個空挺団及び1個ヘリコプター団が記載されなくなり、代わって中央即応集団が認められた。

主要装備も、大規模な地上軍の侵攻の危険性が大幅に減少し、むしろ軽装備の工作員又はテロリストの危険性が高まったことにより、対機甲戦重視を改め、正面装備を大幅に減少させた一方、即応力・機動性の向上を目指している。その一環として、コア部隊(即応予備自衛官を中心とする部隊)については、師団・旅団から方面隊直隷に移管し(東北方面混成団など。)、第一線部隊である師団・旅団の全てを常備自衛官により充実させ、即応性を向上させた。

しかし、この変革に伴って戦車や火砲といった高強度紛争向け装備の大幅削減、そして隊員の削減なども同時に行われている。例えば、戦車の保有数は2005年3月現在で980両であるが、防衛計画の大綱(平成17年以降)では、これを600両程度まで削減することになっている。実際には600両以上保有する老朽化した74式戦車が多数退役する中で、74式戦車の後継として10式戦車を少数調達していくことでこの数字を達成するものであり、結果として質的に向上するのは確かだが、どこまで質で量を補えるかについて疑問の声もある。この点で「小規模化」すなわち防衛力の削減だとの見方もある。

[編集] 師団・旅団の体制

平成17年度以降の防衛計画の大綱によると、師団及び旅団は大きく2つに分類された(大綱自体には明記はなく、下記定義は平成18年度防衛白書による)。


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即応近代化師団・旅団 
新たな脅威や多様な事態に迅速かつ効果的に対応し得るよう、戦車や火砲などの重装備を効率化し、即応性・機動性を重視して編成・配置する部隊。
総合近代化師団・旅団 
新たな脅威や多様な事態への対応から、将来の本格的な侵略事態の対処まで、あらゆる事態に対応し得るよう、総合的な能力を重視して編成・配置する部隊。

更に、即応近代化師団には特に政経中枢型(第1師団・第3師団)及び離島型(第15旅団)が、総合近代化師団には機甲型(第7師団)が設けられる。

[編集] 中期防衛力整備計画(平成17年〜平成21年)

防衛計画の大綱(平成17年度以降)に基き、中期防衛力整備計画 (2005)が定められた。ここでは、陸上自衛隊の組織の見直しとして、「陸上自衛隊については、戦車及び主要特科装備の縮減を図りつつ、即応性、機動性等を一層向上させるため、5個の師団、1個の旅団及び2個の混成団について改編を実施し、このうち1個の師団及び2個の混成団は旅団に改編する。また、機動運用部隊や専門部隊を一元的に管理・運用する中央即応集団を新編する。」とされた。また、同時に「計画期間末の編成定数については、おおむね16万1千人程度、常備自衛官定員についてはおおむね15万2千人程度、即応予備自衛官員数については、おおむね8千人程度をめどとする。なお、陸上自衛隊の常備自衛官の充足については、計画期間末において、おおむね14万6千人程度をめどとする。」とされた。

この中期防衛力整備計画における装備品の主要な整備目標は次の通りである。戦車は49両、火砲(迫撃砲を除く。)は38両、装甲車は104両、戦闘ヘリコプター(AH-64D)は7機、輸送ヘリコプター(CH-47JA)は11機、中距離地対空誘導弾(03式中距離地対空誘導弾)は8個中隊である。

今まで対戦車ヘリコプターとして配備されていたAH-1S コブラが退役する一方で、戦闘ヘリコプターとしてAH-64D アパッチ・ロングボウが新たに就役することになっていたが、防衛省は2007年にAH-64Dの導入打ち切りを発表し、それまでの調達数は10機となった。現在、新たな後継攻撃ヘリコプターの採用計画が進展している(詳細はAH-X)。

なお、この計画に基づき以下の部隊・機関について新編・改編が実施された。

[編集] 中期防衛力整備計画(平成23年〜平成27年)

当初の本計画の策定は2009年末に予定されていたが、同年8月30日に実施された第45回衆議院議員総選挙の結果自由民主党から鳩山由紀夫内閣(民主党)へと政権が交代する。これに伴い、麻生内閣下で提出された平成22年度予算編成の見直しが図られることとなり、次年度分の予算編成は防衛大綱と中期防の裏づけの無い単年度予算で編成された。

また、当初の概算要求に盛り込まれていた組織改編は先送りとなり、石破茂防衛大臣下で設立された防衛省改革会議も廃止となった。

陸上における国土の防衛を主任務とする。1990年代以降、ソビエト連邦消滅による北方脅威の減少によって日本本土で大規模地上戦が起こる可能性は減少したものの、中国の台頭による先島諸島等での島嶼部防衛・北朝鮮のテロリズム対処やゲリラの遊撃(つまり、従来からの「北の脅威」論は撤回されていない)、また阪神・淡路大震災以降に特に活発になった災害派遣、海外派遣など、陸自の任務は一層増えており、北方重視であったこれまでの配備を見直して全国的な変革が現在も行われている。

[編集] 国土防衛

日本は四方を海に囲まれた島国であり、海上交通路(シーレーン)を封鎖されては国家の存立も危うくなる。また日本の防衛基本方針は専守防衛であるために、外国からの侵攻を受けた場合は、まず海上自衛隊、航空自衛隊が主体となって洋上での戦闘を行う事が想定されている。そのため陸上自衛隊は、その後にある「最終防衛力」と位置づけられている。標語である『Final Goalkeeper of Defense』はこれを表している。

一般に先進国の国防において最も費用の掛かるのが人件費(給与、糧食等)であり、日本も例外ではなく、自衛隊全体の人件費だけで防衛予算の45%を占める。そして、隊員を圧倒的に多く抱えるのが陸自(15.5万人)であり、海自(4.2万人)、空自(4.6万人)を大きく引き離す。他方、陸海空の予算比は概ね4:3:3でしかなく、このことから陸自は予算の大半が人件費であることが分かる。装備の維持費等を差し引くと、ますます装備の調達予算がないのが現状である。よって、陸上自衛隊は「貧乏自衛隊」と自嘲する風潮もあるといわれる。現在の規模は15万人程度であるが、設立当初の見積もりなど一説には「日本全土を適切に防衛するには陸自25万人が必要」という意見もある。時に防衛予算からみて「海自、空自を重視し陸自は縮小」 といった意見も見られるが、島国である日本にとっての現在の陸上自衛隊の存在は「潜在防衛力」であり、「実際の本土での戦闘」ではなく、「確固たる陸上部隊が存在すること」による「上陸侵攻の抑止」を第一の任務としている(つまり、適切な規模の陸上戦力の存在を担保として、はじめて我の海空戦力が有効な能力を発揮し得る、という考え方でもある)。

防衛任務のため、正面装備として戦車・装甲車やヘリコプターなどを保有しており、これらの装備は毎年8月に実施・一般公開される富士総合火力演習や各地の駐屯地祭りなどで公開されている。三自衛隊中唯一、陸上自衛隊は航空学生制度がなく、ヘリコプターのパイロットは陸曹航空操縦学生として陸上自衛隊内から採用している。

最近では、(列島国家の宿命とも言える)遠方の離島への侵攻に対する「上陸侵攻の抑止」任務が重要性を増しつつある。また、国内に潜伏する工作員(主に北朝鮮によるものが想定される)によるゲリラ・コマンド攻撃、あるいはテロリズム等に対する抑止力として重視されつつある。近年テロの脅威が高まっているため、日本が大規模テロや特殊部隊による攻撃などを受けた場合、防衛出動または治安・警護出動の命により陸上自衛隊が最優先で防護する「重要防護施設」(原子力発電所・石油コンビナート・政経中枢地区など破壊されると甚大な被害が出るおそれが高い施設や、国民への情報伝達ルートや通信手段を確保する放送・通信施設など)が全国に135箇所指定されており、各方面隊に担当施設が割り振られている。

なお、「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」により、2003年(平成15年)2月8日までに、訓練用など一部を除く全ての対人地雷の廃棄を完了した。また、2008年(平成20年)12月にはクラスター爆弾禁止条約に署名したことで、保有するクラスター爆弾を新型爆弾の調達中止も含め全廃する。


[編集] 災害派遣・民生協力

陸上自衛隊は、主に大規模災害に際し、救援活動に派遣される。自衛隊法において主たる任務目的とはされていないが、世界有数の災害発生国である日本で半世紀にわたる災害派遣を経験し、多くの有事対処を行ってきた。

地震、台風、水害、雪害、火山活動など多種多様な災害に出動している。2004年の新潟県中越地震では、孤立集落から多くの被災者をヘリコプターで救出したほか、新潟スタジアム前に野外炊具を設置し、毎食多数の被災者に食事を提供した。被災国から出動要請を受ける機会も増えており、スマトラ島沖地震やパキスタン地震の際にも緊急出動している。

災害出動以外にも副次的な業務として、各種マラソン大会やさっぽろ雪まつりなどの「民生協力」にも力を入れている。また、エゾシカやイノシシなど[要出典]の害獣駆除に、猟友会などと共に協力することもある[6]

[編集] 海外派遣

国連平和維持活動や紛争復興、上記のような災害援助のために日本国外に派遣される事がある。PKO協力法等によって自衛隊の海外派遣は一般的な任務となり、また国際連合要請以外にも時事立法による派遣が恒常化しつつある。陸上部隊として海外派遣の中心を担う事とされている。

[編集] 部隊の編制と機関

陸上自衛隊は大別して、陸上幕僚監部と大小様々な部隊および機関からなる。 陸上幕僚監部は防衛大臣の幕僚機関として、防衛警備計画の立案や部隊等の管理運営を調整し、大臣を補佐する。

[編集] 主要部隊

陸上自衛隊の組織図。

部隊とは、十分な兵器を装備し、戦闘に従事するかまたはそれを支援する能力を有する組織をさし、戦略単位として方面隊、作戦単位として師団・旅団、戦術単位として群・連隊・隊・大隊といった部隊編制を有する。これらの部隊は、それぞれに警備担任区域を有しており、平時の防衛警備を担任する。また、特定の警備担任区域をもたない機動運用部隊として中央即応集団が置かれている。陸上自衛隊の有する戦略単位・作戦単位は下記のとおりである。

[編集] 部隊の単位

師団の標準的な編制図。

旅団の標準的な編制図。

普通科小銃小隊の標準的な編制図。

陸上自衛隊における部隊の単位は、自衛隊法施行令及び陸上自衛隊の部隊の組織及び編成に関する訓令等によって、次のように規定されている。[7][8]

  • 方面隊:方面総監は陸将(指定職5号)。方面総監部、2~4個の師団または旅団、およびその他の直轄部隊からなる。
  • 中央即応集団:中央即応集団司令官は陸将(指定職3号)。中央即応集団司令部及び空挺団、ヘリコプター団、中央即応連隊、特殊作戦群その他防衛大臣の定める部隊からなる。
  • 師団:師団長は陸将(指定職2号または1号)。師団司令部、普通科連隊、戦車連隊(大隊)、特科連隊(特科隊)、後方支援連隊などからなる。
  • 旅団:旅団長は陸将補(一)。構成は師団に準じており、旅団司令部、普通科連隊、後方支援隊などからなる。[9]
  • 団:団長は陸将補(二)または1等陸佐(一)。団本部及び数個の連隊、群、大隊又は隊等からなる。方面混成団、特科団、高射特科団、施設団、通信団、富士教導団及び開発実験団がある。
  • 連隊:連隊長は1等陸佐(二)。連隊本部および数個の大隊または中隊からなる。
  • 群:群長は1等陸佐(二若しくは三)。群本部および数個の大隊または中隊からなる。
  • 大隊:大隊長は2等陸佐(大隊規模の部隊が複数駐屯する駐屯地の駐屯地司令を兼務する場合等に限り1佐(三)が充てられる)。大隊本部および数個の中隊からなる。
  • 中隊:中隊長は3等陸佐または1等陸尉。中隊本部および数個の小隊からなる。
  • 小隊:小隊長は1等陸尉から3等陸尉。小隊本部および数個の分隊または班からなる。
  • 班:班長は2等陸曹または3等陸曹。数個の組からなる。10名程度で構成される。
  • 分隊:分隊長は2等陸曹または3等陸曹。数個の組または4~8名程度の分隊員からなる。
  • 組:組長は3等陸曹、陸士長または1等陸士。2~4名程度の組員からなる。
  • 隊:規模は様々であり、連隊よりも大規模だが団とするには小規模なもの(西部方面特科隊や北部方面施設隊)や連隊が縮小されて成立したもの(第1特科隊など)から中隊相当のものなど、多岐に亙っている。基本的には、師団・旅団内に置かれている隊(偵察隊、特科隊、航空隊、後方支援隊、化学防護隊及び音楽隊。但し司令部付隊及び後方支援連隊又は後方支援隊隷下の隊は冠称番号がない。)は師団又は旅団の番号を冠称している。他方、独立部隊の場合、部隊番号が1・2桁のものは連隊相当、100番台のものは大隊相当、300番台のものは中隊相当とされる。また「○○方面○○隊」のような命名もある。
  • (コア部隊):基幹要員は常備自衛官で構成され、主力は訓練や災害派遣または防衛出動等で招集される即応予備自衛官からなる。

[編集] 機関

機関とは学校や病院等の部隊を維持運営するための業務を担う組織である。 陸上自衛隊では、職種別の学校や地域別の補給処等が置かれている。

正しくは学校及び研究本部、補給統制本部が防衛大臣直轄機関、補給処は方面直轄の機関である。(補給処が補給統制本部の統制に従うのは業務上の統制である。自衛隊法第26条第5項に明記)

以下は三自衛隊共同の機関である。

その他、陸海空自衛隊それぞれの機関として捕虜収容所を臨時に設置できることを定めている(自衛隊法第24条第3項)。


[編集] 陸上自衛官

[編集] 装備

[編集] その他

[編集] 関連項目

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