生産技術(せいさんぎじゅつ)とは、主に製造業で使われてきた、経済効率(生産性)を高めるための知識体系・技術体系である。
製造業はQCDの三つの柱で成り立っているとされる。 Qは品質 (Quality)、Cはコスト (Cost)、Dは納期 (Delivery) を表す。 そのため、製造業を営む企業ではQCDそれぞれの責任部門として、品質管理部門・生産技術部門・製造部門を置いているのが普通である。それぞれの部門は責任部門であり、ここまでが各々の範囲というような縦割りの業務区分はしておらず、最終的な製品での状態(品質、コスト、納期)に対しての責任を持ち、企業の全部門に対しての発言権が与えられている。たとえば、ある製品を社長が出荷しろと命令しても、品質管理の責任者が拒否すればその製品は出荷できない。
その中で、生産技術部門はコストの責任部門であり、その活動の成果は企業の業績に直結するため、生産技術部門の発言範囲は生産現場から経営企画にまで及ぶ。 製造業においては企業の中核的な機能を担う重要な部門である。
そのため、生産技術に関係する学問や技術の範囲はきわめて広い。生産システム工学、経営工学、プロセス工学などが近いものとして上げられるが、これらは生産技術の一部分を知識化したものである。生産技術にはこれらの学問的知識に加えて、それぞれ加工技術の専門知識と経験が必要とされる。また、常に合理性という価値観が強く求められるため、机上だけでは習得することが困難な技術でもある。
このように技術と同時に実学に根ざしており、やや哲学的な意味合いのある言葉である。そのためか生産技術学という学問は存在していないが、ものつくりの哲学として広く定着している。たいていの技術的専門知識は特定の分野でしか生かされないものだが、生産技術は高い専門性を有するにもかかわらず、ほとんど全ての産業で使うことが出来るのが大きな特長である。
近年生産技術の対象は大きく広がってきた。製造業が中心に使われてきた技術だが、最近ではサービス業や農業などでも大幅に取り入れられるようになった。郵便局の集配業務、中部国際空港の建設などにトヨタ生産方式が適用され、大きな効果をあげたのは記憶に新しい。TQCなども航空業界などで応用されている。変わったところでは、テーマパークの待ち行列の短縮、手術室の合理化などの事例もある。
無論、製造業がメインフィールドであることには変わりは無く、中でも日本の生産技術の高さは世界のトップクラスにある。特に自動車産業の生産技術の高さは特筆に値し、安くて信頼性の高い自動車が世界中に輸出され、膨大な利益を生み出して来たことは言うまでもない。生産技術は富を生み出すための、合理思想を基盤とした技術体系である。
近代より前の生産技術は、考古学、歴史学、文化人類学など分野で詳しく研究されている。 人口の増減や文明の盛衰に生産技術が深く関わっていることは歴史的事実である。[1]
近代的な生産技術は産業革命から始まる。 というより、生産技術の中から産業革命が発生し、世界を近代化に導いたと考えるべきだろう。
[編集] 産業革命以前
中世と近代の違いは人々の価値観の違いにある。 中世のヨーロッパではカトリックが支配的で、善悪が価値観の基準であり、その善悪は教会が決めることであった。それは伝統主義であり、古いものが正しいとされていた。 そのような中でイタリアを中心とする海洋貿易を通し、少しずつ中東や東方の物産や知識が入ってくるようになり、それを刺激としてルネサンスが勃興する。 これを境にヨーロッパでは合理的なものを良いとする価値観が徐々に支配的になっていく。 (16世紀頃)
17世紀頃、丸太を板に加工するために風車を使った製材所が数多く設立された。風車によって製材作業の生産性は一気に30倍に上がったと言われている[2] 。 板材が豊富かつ安価に供給され、大量の船を作ることが可能になり、オランダ海上帝国を出現させることになった。 貿易事業は次第に大きくなり、巨大な資金が必要になった。 そこで株式会社と言うシステムが発明され、経営という資本運用の概念が生まれた。 そのための技術も開発されていった。
17世紀後半ロシアの遣欧使節団がヨーロッパを歴訪する。 当時のロシアはヨーロッパと違い、辺境の遅れた地域として見られていた。 近代化の進みつつあるヨーロッパを視察し、近代化に必要な技術を持ち帰るのが目的であった。 このとき、若き皇帝ピョートル1世がオランダの造船所で、一般の職工として4ヶ月間も働いたというエピソードが残っている。 当時の先端技術が集約されている生産現場こそ合理性を学ぶのに最適な場所だったからである。 先輩職人に叱られながら、ピョートルは合理性というものの見方を体で学び、その後のロシアを急速に近代化に導いた。
[編集] 産業革命
詳細は「産業革命」を参照
17世紀前半、スペインの無敵艦隊に勝ったイギリスは、植民地の経営に本格的に乗り出し始める。植民地で原材料を作り、イギリス本土で加工し、世界中に売りさばいた。特に綿製品は飛ぶように売れ、作れば作っただけ売れるという状態だった。この好況を背景に、大量生産への要請が高まった。
大量生産のために次々に紡績機械が開発された。 また、作業の合理化のために人々を一箇所に集めて同時に作業をさせる工場というシステムが発明された。 しかし動力源は水車、風車、家畜、人力などに頼っていた。 この頃の生産形態は工場制手工業と言われる。 工場制手工業が発達するにつれて、生産性や能率を向上するノウハウや概念が確立しつつあった。 蓄積された資本も巨大になり、資本家の力が強くなっていった。
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